第10編: 母

第10編: 母

私は、10代の頃、10年近く、仏教哲学を勉強した。それほど多くを学び得たわけではないかもしれないが、懐疑心への尊敬の念を育てることによって、心狭くなることには成功したようである。勉強することで、私は傲慢になり、私の純粋な認識力は曇ってしまった。私は、迷信や加持、そして信仰心を疑う懐疑論者を美化し始めた。もしも、その頃、エーリヒ・フロムやニーチェを知っていたら、おそらく彼らを釈迦牟尼と同じぐらい尊敬していただろう。...
第9編: 師から弟子への継承

第9編: 師から弟子への継承

もしも、釈迦牟尼仏が、今、生きていたら、彼の信奉者である私たちが、宗派にしっかりと分かれ、それが宗派主義と争いにつながっていることに、あまり感心しないだろうと思う。私が生まれた国の人びとは、タイの仏教徒が説くものを,...
第8編: カルマの足あと

第8編: カルマの足あと

輪廻を生きる私たちは、多くの物を食べ、多くの物のにおいを嗅ぎ、いろいろな人と夜をともにし、そして、このような行動の全てがどのような種をまいているのか全く知らずにいる。知りながらも、知らないうちにも、私たちは、たえまなく、遺産を作り、世界を変え、私たちの痕跡を残し続けている。...
第7編: 無邪気さの喪失

第7編: 無邪気さの喪失

第7編:無邪気さの喪失 私が育った東ブータンでは、いたる所に男根が飾られていた。私の家でも、ドアノブに彫られていたり、スープ用のレードルの飾りになっていたり、階段の手すりについていたりした。それらはまた、家の中にも外にも、様々な大きさと形で、壁に描かれていた。たくさんありすぎて、いちいち気にとめる人もいないぐらいだった。男の子も、女の子も、兄弟も姉妹も、僧侶も尼僧も、これらの男根のシンボルや絵の前でおしゃべりをしていた。...
第6編: 思い出と気品について

第6編: 思い出と気品について

第6編 思い出と気品について 思い出というのは、悟りに至った者のためのものではない。悟りに至った者は、思い出すということをしない。なぜなら、彼らに過去はないのだから。過去とは—そして、そのことについていうなら、現在と未来も—、過去を参照して、未来が来ると期待し、それを当然と思う私たちのような者のためのものである。...