第12編: 私はブッダである

第12編: 私はブッダである

私は自分がブッダであるということに、何の疑問ももっていない。この確信は、『宝生論』のような経典を読んだ結果ではない。『宝生論』は自分の穢れは一時的なもので、自身の本当の性質ではないと説くが、私は、論理と理由づけに頼る分別を持ち合わせた人間ではない。それよりも、頼るということをやっているこの自分というものに、とても深い疑いの念をもっている。いや、自分がブッダだと私が信じるのは、私の師が、繰り返しそう言ったからだ。私は、他の人からの、特に自分の師からの肯定的な確約が好きな怠け者のひとりだ。でも、注意しなければならないのは、私の師は、生きと...
第11編: さまざまな英雄たち

第11編: さまざまな英雄たち

修行のためにシッキムへ送られる前は、私はブータンの片田舎の村で、ほぼ、母と祖父母に育てられた。父は、ダージリン近くのクルセオンでオール・インディア・ラジオのアナウンサー兼ニュースキャスターとして働いていた。私の身の回りにあった唯一のラジオは祖父のものだった。しかし、祖父はそれを聞くことはあまりなく、村に娯楽はほとんどなかった。晩には、祖父母がお話をきかせてくれた。そして、それによって、私は世界について知り始めたのだった。...
第10編: 母

第10編: 母

私は、10代の頃、10年近く、仏教哲学を勉強した。それほど多くを学び得たわけではないかもしれないが、懐疑心への尊敬の念を育てることによって、心狭くなることには成功したようである。勉強することで、私は傲慢になり、私の純粋な認識力は曇ってしまった。私は、迷信や加持、そして信仰心を疑う懐疑論者を美化し始めた。もしも、その頃、エーリヒ・フロムやニーチェを知っていたら、おそらく彼らを釈迦牟尼と同じぐらい尊敬していただろう。...
第9編:師から弟子への継承

第9編:師から弟子への継承

もしも、釈迦牟尼仏が、今、生きていたら、彼の信奉者である私たちが、宗派にしっかりと分かれ、それが宗派主義と争いにつながっていることに、あまり感心しないだろうと思う。私が生まれた国の人びとは、タイの仏教徒が説くものを,...
第8編:カルマの足あと

第8編:カルマの足あと

輪廻を生きる私たちは、多くの物を食べ、多くの物のにおいを嗅ぎ、いろいろな人と夜をともにし、そして、このような行動の全てがどのような種をまいているのか全く知らずにいる。知りながらも、知らないうちにも、私たちは、たえまなく、遺産を作り、世界を変え、私たちの痕跡を残し続けている。...