第13編: ラブランの壮大さ

第13編: ラブランの壮大さ

チベット仏教の伝統のなかで、精神の物質主義を最も象徴する現象は、おそらくラブランというものだろう。ラブランという言葉は、「ラマ」という単語のラと、「巣」というような意味のブランからなっている。そして、基本的には、ラマの住居あるいは世帯という意味である。...
第12編: 私はブッダである

第12編: 私はブッダである

私は自分がブッダであるということに、何の疑問ももっていない。この確信は、『宝生論』のような経典を読んだ結果ではない。『宝生論』は自分の穢れは一時的なもので、自身の本当の性質ではないと説くが、私は、論理と理由づけに頼る分別を持ち合わせた人間ではない。それよりも、頼るということをやっているこの自分というものに、とても深い疑いの念をもっている。いや、自分がブッダだと私が信じるのは、私の師が、繰り返しそう言ったからだ。私は、他の人からの、特に自分の師からの肯定的な確約が好きな怠け者のひとりだ。でも、注意しなければならないのは、私の師は、生きと...
第11編: さまざまな英雄たち

第11編: さまざまな英雄たち

修行のためにシッキムへ送られる前は、私はブータンの片田舎の村で、ほぼ、母と祖父母に育てられた。父は、ダージリン近くのクルセオンでオール・インディア・ラジオのアナウンサー兼ニュースキャスターとして働いていた。私の身の回りにあった唯一のラジオは祖父のものだった。しかし、祖父はそれを聞くことはあまりなく、村に娯楽はほとんどなかった。晩には、祖父母がお話をきかせてくれた。そして、それによって、私は世界について知り始めたのだった。...
第10編: 母

第10編: 母

私は、10代の頃、10年近く、仏教哲学を勉強した。それほど多くを学び得たわけではないかもしれないが、懐疑心への尊敬の念を育てることによって、心狭くなることには成功したようである。勉強することで、私は傲慢になり、私の純粋な認識力は曇ってしまった。私は、迷信や加持、そして信仰心を疑う懐疑論者を美化し始めた。もしも、その頃、エーリヒ・フロムやニーチェを知っていたら、おそらく彼らを釈迦牟尼と同じぐらい尊敬していただろう。...
第9編:師から弟子への継承

第9編:師から弟子への継承

もしも、釈迦牟尼仏が、今、生きていたら、彼の信奉者である私たちが、宗派にしっかりと分かれ、それが宗派主義と争いにつながっていることに、あまり感心しないだろうと思う。私が生まれた国の人びとは、タイの仏教徒が説くものを,...